完全に舐めていた『シン・ゴジラ』がとてつもない大傑作で反省した

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個人的に『シン・ゴジラ』ほど、観る前と後とで印象が一変してしまった映画は今までなかった。

正直、観る前は“ゴジラ=怪獣モノ”ということで完全に馬鹿にしていた。

観ることにしたのは、夏休み中で時間的に余裕があったのと、Twitterでシックな印象の映画好きの方もこぞって高い評価をしてる印象を受けたため。
結果的に私は鑑賞後、『超絶大傑作であることを疑える隙が全編135分の中でガチで1秒も与えられない』と感想を持ってツイートした。
そのこと自体が自分でも本当に「まさか」の出来事だった。

 

Twitterで事前に見ていた好評についても


・チームが一丸となり素晴らしい仕事をする
  ⇦体育会系ノリ的な映画か。めっちゃ好みじゃないや。

・「エヴァンゲリオン」的である
  ⇦よく知らないし、興味も湧かない。


・東京の実在するいろいろな街がゴジラによってリアリティ満載にぶっ壊される
  ⇦これは面白そう!ちょっと観たい。


正直こんなくらいの期待値の低さだった。

ところが実際に映画が始まってみると、最初の5分で既に何度も「おおぉ?!」となり、10分経つ頃には「もうこれ評判通り傑作臭がガンガン沸き立ってるわ!!w もうオープングのこの時点からぐうの音も出ない予感大!ww これはもしかしたらもしかするかもしれん!」という状態に本気で陥っていた。

そしてそこから先はもう完全に心を許しきり、めくるめく極上のスピード感とガチリアルなスリル感に飲み込まれていた。


私が『シン・ゴジラ』にここまで魅せられ、感嘆し尽くしたのは、時間体験のストリームとしての映画を捉えた時に、本作はあまりに完全無欠だったことが圧倒的な理由となっている。

そのひとつひとつの時間を構成する要素のひとつとして、評判通りの洗練された最新の映像があり、その一方でトラディショナルなシリーズとして過去の作品へのオマージュを思わせるレトロ演習があり、ストーリー上での瀬戸際で奮闘し続けるプロフェッショナル集団を描いた面白さがある。

だけど、それらを映画上の魅力的なシーンとして見事に立たせているのは、圧倒的なスピード感とスリルを一時も絶えず貫き通す、ズバ抜けた編集での賭けに大勝利してるからだと思う。


これだけ圧巻な編集と構成のセンス、スピード感を持ち出せるならば、むしろゴジラじゃなくても、題材の具体的な中身はある程度なんでもいけるんじゃないかとさえ一瞬思ったんだけど、その時にも欠かせない大事な要素があることも『シン・ゴジラ』を観て気付かされた。
ゴジラモノだからこそ、それとよりダイレクトに結びつけたもの。それはスケール感だと思う。

(実感としての)スケールとは、異なる場所、同じじゃない場所をより多く、ひとつの世界の中に内包していること。それが表現されている、示されていることだと思う。

そしてここでの“異なる場所”とは、“異る立場や立ち位置”とも言い換えることができると思う。『シン・ゴジラ』は、このスケール感の創造が、本当に洗練されていて素晴らしかった。

 

シン・ゴジラ』を観ていると、スピード感とスケール感とは極めて密接に関わっていて、両者にはまさに相乗効果があるのだとよく分かる。

日本の最高決定機関とそれに準ずる幾つかのセクション達に対して、同時点で進行する、それぞれ相互には認識し得ない状況を、私たち観客は監視カメラを次々とザッピングするように眺め続ける。

ゴジラが現れてる時も姿を消してる時も大差なく、そのスリルあるザッピングは楽しく、ワクワクする。

本作が、ゴジラや怪獣モノを守備範囲外とする人でも大いに楽しめる理由はまさにそこにある気がする。

ゴジラがメインなのではなく、ある緊急の事象が起きた時にも、それぞれの立ち位置によって、そこから何を危機として受け取るかは人それぞれであり、皆んなそれぞれに違った危機から脱しよう・回避しようと、それぞれの戦略で交わり合う。

その混雑具合と描き方が、スピード感、スケール感、リアリティともぐうの音も出ないほど満点なのが本作であり、その熱はチームワークタイプよりも普段人知れず孤軍奮闘してるクールな大人こそ夢中にさせるのでは。