『たかが世界の終わり』を観て。「家族」の意義を今ここでもう一度私たちに問いかける、家族映画の新たな金字塔

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『たかが世界の終わり』を観た。

 

映画という表現全体の在り方に対する、本作の感想は簡単にだけどTwitterで書いた。

なので、ここではそれ以外のこと、主に物語の内容に対する勝手な個人的な見方とか、思ったことを書きたいと思う。

 

端的に言うと『たかが世界の終わり』は、「家族」という語り尽くされ、描き尽くされた感のあるテーマに対して、今ここでもう一度その意義について一人一人に真正面から問う、高い志に根付いた映画であると感じたし、それに賞賛できる完成度と説得力によって成功している作品だと思う。

『たかが世界の終わり』は挑発的な演出の中で、置き去りにされた美が切なく乱舞している映画だ。主人公によって、そこに置き去りにされたままの美。それが言葉で、表情で、しぐさで、切なく、やるせなく、常にスクリーンいっぱい溢れている。その姿はパッと見、観客に甘美なセンチメントを呼び起こすけど、それに該当するどのシーンにおいても、甘い情緒を感じさせる時間はそう長くは続かない。私たちが知ってのとおり、「家族」ってそんなに甘くはないのですから。この映画はちっとも無駄に甘くなくて、リアル。そこを徹底してるからこそ、2010年代にこの誰もが慣れすぎたテーマを扱っても、意義深い作品に成り得たのだと思う。

 

私たち一人一人の人間においての「家族」の役割とはなんでしょうか?「そもそも役割を見出すべきものなのか。」「それは「私」や「家族」によって全然違ってくるでしょ。」…等々いろいろツッコミはあると思うけど、ここではこの映画に則して考えてみたい。

私はこう考えてみた。まだ社会的側面からは意義付けされていない、つまり(社会的には)無価値な、(社会的には)まだ価値を得ていない、そんな個人の人間性のパーツを認め、その存在を肯定的に捉えること。それが家族の担う役割。いや、もっと正確に表現すると、それが「家族」と「世の中」の差異の特徴では、と。

「家族」は間違いなく社会ではあるけど、家族の外にある「世の中」のどこかしらのコミュニティーを意味する社会とは、どう違うのか?どう違うべきなのか?

その問いこそが私が『たかが世界の終わり』で表現される物語から感じた、一番大きなものだった。

 

12年ぶりに(ある種)「致し方ない」理由で実家へ帰ってきた主人公は、親元の一家で暮らし続けている他の4人を「家族」と捉えるなら、それとは対称的な「社会(世の中)」側の存在として描かれている。

5人中1人の「社会」側の方が主人公として描かれているので、歪な家族だな、とか、主人公が目的を達成できるように応援したい、という気持ちで観がちなんだけど、そもそも主人公は「家族」の外にある「社会」的存在であって、12年ぶりに一方的な気持ちでやってきて簡単に中に入れるほど、「家族」というものの意義は敷居が低くない。

主人公は、家族組4人に比べるととても洗練されていて、カッコ悪いところがなくて、身のこなしも紳士だ。でもそれはあの映画の中で主人公が偉いわけではなくて、「社会(世の中)」に出ている人は必然的にそうなっていく(傾向が強い)からで、他の4人がそれとは対照的に見えるのは、あの家で4人は「家族」だからだ。

 

2010年代、小学生や中学生でもごく自然にSNSをやっていて、人間が「社会的」な部分を成長させていくスピードは、2000年代の比じゃないのだと思う。

子どもたちが若くして、洗練されていて、カッコよくて、スマートな大人の存在を知れる機会も、(たとえ画面越しとはいえ)90年代や2000年代よりもグンと増えているはずで、それは子どもたちが精神的な「自立」を果たすまでのスピードを上げることに加勢するようにも思う。

でも。結局、「人間」って誰しも「社会的」な部分だけでは「生きていけない」動物であることは、永遠に変わらない。

「社会的」な部分がどれだけ成長しても、社会的側面からは意義付けされていない、つまり「(社会的には)無価値」な、「(社会的には)価値を得ていない」、そんな自分の人間性の部分を認めてもらうことが、人間には永遠に必要だ。

そして、その可能性を託せる空間こそが「家族」であって欲しい。

そんな希望と(それはフィクションの中の夢物語では?)という絶望が、『たかが世界の終わり』という映画には溢れ、乱舞している。

「家族」の意義を、観る人 一人一人にしっかり問いながら。

 

以上。

 

あんまり大したことが書けなかったし、綺麗にまとまらなかった。

でも、こういうちょっと真面目に考えれば当たり前のことを、世の中の人たちが何年かに1回考え直してみらえる機会っていうのは、意外ととても大事なことなんだと思う。

そういう意味で『たかが世界の終わり』は2010年代の家族映画として金字塔を打ち立てられた表現だったと感じます。

すっかり「社会的」な存在として出来上がってしまった存在として(しかも極めて自分本気な目的で(しかもそれを如何にも自分だけのためじゃくて相手のためにもなるという思考回路と、それを相手にスマートに納得させようとする態度が自然と出来上がってしまっているのも実に「社会的」))突如「家族」の中へ入ってきた主人公は、中盤まで「家族」だからこそ見られるはずの、個々人の人間性を・その内面にある美点を、置き去りにしたまま時間を経過させてしまいます。言葉や表情や視線で、空気の中に沢山舞い踊っていたのに、彼は気付かない。彼の心の中には自分の目的を達成することでいっぱいだからです。

でもそれを見かねたお母さんが、“なに大事なことを置き去りにしてんじゃ”的な感じで拾い上げて渡してくれる。土壇場で他人からヒントを与えられすぎですが、彼はそうして「社会的」な人から「家族」の人へと近づいていきます。

死を告げに、家族にさよならを言いに来た人が、やっと「家族」として迎えられる入り口に立つ。そういう映画だと私は解釈しました。あのエンディングの、物語的には綺麗にまとまらなかった感じも含めて、やっと「家族」としての入り口に立ったような感じかなと。

でも「入口」と「出口」って同じなんですよね…そう考えると深くて楽しいです。

 

 

『たかが世界の終わり』はリアリティ重視で「家族」と「世の中」の差異を描いていますが、それを一番美しい理想形、最高の夢物語で描いた映画に『我が家の楽園』があって(有名すぎますが)、私はこの映画を観るたびに泣いてしまいます。いや、ほんとに完璧に感動的すぎて。なので『たかが世界の終わり』的リアリティに打ちのめされ過ぎてしまったら、こういう夢のような完璧家族映画で心を癒すものも、また映画との素敵な付き合い方かもしれませんね。リアリティのあるやつも、ファンタジックなのも、両方好き。