『ラ・ラ・ランド』往年の定番楽曲を新たなセンスと解釈によって幾度もアップデートさせてきたジャズの名演のように、夢追い人たちの青春が築く永遠の循環の中に息づく1人1人の物語を、映画が持ち得る最大限の想像力で讃えた、祝福の映画。
『ラ・ラ・ランド』を観た。
まさに最高の映画体験だった。
エンディング近くになると、こんな素晴らしい作品の中を巡れたことの喜びで、身体中が幸福感で満ち満ちた。
せっかくなので個人的にこの作品に対して感じたものを書き残しておきます。主に2回目の鑑賞で気付いたことです。
まず、2回目に観るオープニングシーン。歌の内容にとてもハッとした。1回目は「さすが夢追い人!半端ないエネルギーに溢れておりますなー」と感心するに止まったけど、2回目はそうした押しの強さだけじゃない、もっとセンチメンタルな響きを感じて、キュンと切なくなったほど。
もちろんそれは、この物語の主人公である2人が辿ることになる道のりと、2人の関係の結末を知っているからです。そして、ほのかな切なさを感じながら、驚きました。
オープニングのこの歌が、2人の関係の結末に対する説明までも、既に完全にやり遂げてしまっているからです。
今追いかけている夢を叶えるときに、今の恋人は隣にいない。
その時、彼は私をスクリーンの中で見つけて、2人で過ごした日々を回想するでしょう。
そして私は悲しみに打ちひしがれることがあっても、次の日にはまた新しい気持ちで夢の実現に突き進んでいくんだ。
そんなようなことが歌われる唄です。
私はその、オープニングにも関わらず、作品のテーマを明るく肯定的に総括し、絵的にもクライマックス感全開のそのシーンを見ながら、むしろこのシーンを一番最後にしても綺麗にまとまるじゃん、と思いました。切なくなくて、完全に大団円っぽくて、それはそれで爽快感溢れるんじゃない?と。
そこで、つまり、この映画は“循環”がキーワードなのではないかと気付いたのです。まるで、エンディングの大団円をあえてオープニングに持ってきたみたいな構成だなと捉えた時に。
この映画は劇中で同じ楽曲が、アレンジを変えて何度も何度も登場します。季節を越えても、装いを新たに何度も何度も奏で直されていきます。同じ楽曲が一本の作品の中で形を変えながら循環していくのです。
その姿が、同じ楽曲が時代を超えて様々なプレーヤーによって新たな形で演奏し直されていくジャズそのものを体現しているようでもあって。そういう意味で、ジャズとは、アップデートされていく“循環”という捉え方もできる音楽文化だなと感じました。
そして、そもそも物語としては決して新しさがあるとは言えない、(題材としても展開としても)ありふれているとさえ言える、この2人の辿る物語も、現にハリウッドで・世界中の大都会で、何十年も前から、今夜も、そしてきっと何十年後も繰り返されていく、循環の上にある物語です。それは、この2人が出会って共に過ごした時間が終わるまでの、4つの季節が巡り切っても、また次の年の四季が繰り返し、きっとまたあの冬の渋滞のハイウェイから夢を追う男女の物語が始まっていくのだろうと予感させます。
“普遍的な青春物語”といってしまえばそれまでのそれを、今夜も世界中で多くの誰かが、自分自身の物語として命と無限の感情を注ぎ込んでいる。
『ラ・ラ・ランド』という映画は、そんな永遠の循環の中に息づく夢追い人1人1人の物語を、映画が持ち得る最大限の想像力を駆使して讃えた、祝福の映画だと思います。
そしてもう一つ魅惑的な“循環”がこの映画には潜んでいます。それは例え夢追い人でなくてもよく分かるもの。私たちの心の中で折に触れて幾度も循環する、恋の記憶という循環です。
私たちは過ぎ去った恋を、時を経て何度も何度も回想します。そうしたくなくても、勝手に始まってしまうのです。本作のラストシーンで2人がそうなるように。
そして私たちの中をひどく感傷的に循環し続ける記憶は、恋の記憶だけではないようです。
青春時代に必死になって夢を追いかけたことも、きっと事あるごとに思い出すのでしょう。そうして私たちは、きっと大人になっても、青春が分かるのです。若々しく情熱的な恋愛が分かるのです。だから『ラ・ラ・ランド』は、もう夢追い人だった頃はいつだったかも忘れてしまったような観客にも響くのだと思います。ものごとの循環の描き方がとても上手いから。
最後にエンディングについて。
私は切なさ以上に、美しいハッピーエンドだと捉えました。あの時「絶対パリに行け」と言った自分の正しさも、彼はしっかり感じたはずです。
そしてそれを証明するような最後のアイコンタクト。それはまさしくシックの極みで、もうその瞬間に私はこの映画を愛さずにはいられないのです。