今年劇場公開された『退屈な日々にさようならを』と『知らない、ふたり』の2本の映画で、人と人との関係を・人と映画との関係をフレッシュに捉えあげた今泉力哉作品の素晴らしさについて

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『退屈な日々にさようならを』は、『知らない、ふたり』の正統な延長線上にある作品だと思う。

『退屈な日々にさようならを』を観て今更ながらに感じたんだけど、そもそも今年1月に劇場公開された今泉力哉監督作品『知らない、ふたり』はタイトルがあまりにズバリすぎてる。このタイトルは、『知らない、ふたり』だけにピッタリなタイトルじゃなくて、もし『サッドティー』が『知らない、ふたり』というタイトルで発表されてたとしても全然違和感ないどころか、むしろ本物のタイトルより作品の本質に寄り添いまくってる気がするくらいだし、世界のスケールが大きくなった『退屈な日々にさようならを』の場合は“ふたり”の部分がややサイズ不足な気もするけど、でも仮に『知らない、ふたり』というタイトルだったとしても作品の性質はしっかり捉えてることに納得すると思う。

それだけ『知らない、ふたり』というタームは、おそらく今後発表されていく作品まで含めて、今泉映画の全作に通底する、ひとつの映画観なのだと思う。

 

そんな作家人生を貫く最大のキーワード的タームを、まだまだこの先のキャリアの方が長いはずの2016年の作品に、早々と授けてしまったのだなー、と『退屈な日々にさようならを』を観た今にして感じた。

それくらい、『退屈な日々にさようならを』にもあの“知らない、ふたりさ”が通底している。ギターやピアノの研ぎ澄まされた単音が先導していく、どこかひんやりと静かな空気感も『知らない、ふたり』に似た要素。

『知らない、ふたり』で青春恋愛映画とその上の世代の恋愛映画(あの“二重構造 in ワン・サークル”な、2つの恋愛映画をひとつの世界の元で同居させるような手腕は本当に見事)とに当てはめていた“知らない、ふたりさ”という技法を、『退屈な日々にさようならを』では、恋愛だけには全くとどまらず、人が生まれてから死ぬまでの紆余曲折ありあまる生涯そのものに当てはめたかのように描かれる。人生は、人の世は、無数の“知らない、ふたり”によって、色恋を頭から消してもなお構成され続けている。その滑稽さと寂しさと愛しさ。それは恋愛から人生になっても不変だ。

 

『退屈な日々にさようならを』でも、『サッドティー』でも、『知らない、ふたり』でも、作品に登場する彼ら・彼女らが“知らない、ふたり”たちの集合体であることは、それぞれの映画にとって希望となっている。『サッドティー』では彼らの“知らない、ふたり”たちぶりが爆発的に面白い滑稽さに姿を変え、最高に可笑しいラブフールズ映画として大成功している。

 

『知らない、ふたり』では彼らの“知らない、ふたり”たちぶりが、「人は知らないからこそ思いを巡らし、想像する生き物であること。そして、“優しさ”とはその“知らないからこそ思いを巡らし、想像する”ことなのだということ。そして、私たちが生きているこの世は、そんな“知らないが故の思い巡りや想像”で溢れていること、だとするならそれはこの世が幾つもの“優しさ”で循環していると言えるのではないか、信じられるのではないか。日々そうじゃないって否定したくてしょうがない輩もいっぱいいるけどさ。」と、擦れきった私の心にもう一度優しさの実態を示すことに大成功し、私は映画観で人知れず涙ぐんだ。

 

そして最新作『退屈な日々にさようならを』では、彼らの“知らない、ふたり”たちぶりで、ついにここまで辿り着いたのかと、なんとまぁ人と人の関係、ひいては私たち1人ひとりの人生そのものまでをも貫く、圧巻の境地にまで映画の世界観を連れていくことに大成功している。でも、それはここでは書けない。今回の“知らない、ふたり”の正体は、まさにクライマックスを飾るテーゼとして作品の結末そのものとピッタリ重なり合っていくので。概念がネタバレになるという、そういうレベルの深みに辿り着いてる作品。

 

本作でさらに洗練を遂げた“知らない、ふたり”の描写は、人と映画の関係についても考えさせる。映画を観るという行為は、人間にとって、「自分では知れずにいた・見れずにいた、客観的な自分自身の姿」を、「自身のことは決して客観的に見れていない故に、時に滑稽で時に情けない登場人物を、スクリーンの外側から覗き見することで」知ることができる体験。でもそんな映画を観てる時の自分の姿はやはり自分では見られない。人と映画も、きっと“知らない、ふたり”同士の関係。

作品の内容はまったく異なっているものの、『退屈な日々にさようならを』は個人的に今年観た映画では『ひと夏のファンタジア』を観た時と同様に、映画と人間の関係について色々楽しく考えさせてくれた映画だ。非常に深みがある2本。

『イエスタデイ』は超最高の青春恋愛映画

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10月1日からロードショー公開が始まった『イエスタデイ』は超最高の青春恋愛音楽映画で、ときめきに満ち満ちてるこの映画が、はっきり言って私は死ぬほど好きだ。

 

ノルウェーに住む高校生である主人公たち16歳の親友4人組(熱烈なビートルズファン)で、初めて人のバンドセットを勝手に拝借して「I Saw Her Standing There」をイントロから立ち上げていく高揚感、「Let It Be」の使い方の巧さ、4人で宿題してるふりして発売されたばかりの『Sgt Pepper's Lonely Heart's Club Band』のLPの封を開けて針を落としたときの興奮と衝撃感。理屈や理性を超えて最高だ!
主人公の男の子は転校生の高嶺の花的お嬢様に恋をしてしまいデートにこぎつけるんだけど、彼女が「歌詞が魅力的」と言うレナード・コーエンの良さがイマイチ分からなかったり、「『Rubber Soul』は「Michelle」以外全曲好き」と言ったら、「「Michelle」が最高なのよ」って言われちゃうあたり、このリアルすぎる噛み合わなさと初々しさがもう堪んない!

 

とはいえ、タイトルやチラシ、予告編からのイメージに反して、そこまで音楽音楽していない。(主人公たち親友4人組は正真正銘ビートルズの熱烈なファンであり、彼らに憧れてバンドを組むけれど、そこまで一生懸命練習してる風でもなく、ライブも実質ギリッギリ1回やったかやらないか的程度なもの)
それよりもストレートに青春恋愛映画として美味しいところは余すことなく描き上げた、実に普遍的でエヴァーグリーンな、友情&初恋を通して描かれる不器用で内気な少年の1年間の成長物語となっている。
それでも。いや、きっとだからこそ、この映画は本当に『Beatles (原題)』だ。本当に本当にビートルズ的だ。自分がビートルズに見出す魅力そのものが、この映画と完全に重なった。

 

そもそもなんで昔も今もわざわざあえて外国語の歌をすがるように聴いたりするのだろうか。
普段使っていない、詳しくない言語の歌を、わざわざ歌詞の言葉の意味まで調べて聴いたり歌ったりする動機は何だろう。
その問いに対する最もピンときて感動すら覚える回答を聞ける映画が個人的にあって、それが今年1月に日本でもDVDリリースされたスペイン映画『「僕の戦争」を探して』だ。
奇しくも、これも『イエスタデイ』と同じように60年代中期を舞台にしたビートルズマニアが主人公の映画だ。
主人公はスペインの小学校で子供たちに英語を教えている中年の教師で、1966年に映画の撮影(翌67年に公開された『ジョン・レノンの僕の戦争』)でスペインにやってきたジョン・レノンに会って話をしようと映画の撮影所に忍び込もうとするロードムービー
そんな彼の台詞にこのようなものがある。

 

「子供たちは、英語の授業ではなく、“I Wanna Hold Your Hand”で英語を覚える。君の手を握りたいという意味だ。歌を聴くことで、自分が感じていることを、他の誰かも同じように感じていたんだと知る。だから音楽は人を孤独から救うんだ。」

 

エンディングでは、「ジョン・レノンがスペインを訪れた1966年以降、ビートルズのLPには歌詞カードが付くようになった。」なんてあとがきも出てくる本当に素敵な映画だ。

 

結局のところ、わざわざ外国の歌を歌詞の意味まで調べて追いかける理由の大きいところはここにあるんじゃないかと思う。
自分と同じような気持ちや感じ方をしている人がいる・いた、ことを知ることが出来る、喜び、ときめき。
それは、普段の日常であまりそういった感情に出会えない環境で生きている者にとって、本当にかけがえのない喜びだ。
それに比べたら言語の違いなんて取るに足らないし、むしろ身近な周りでは知ってる人しか知らない秘密の暗号みたいで素敵だと思う。
ノルウェーの映画である『イエスタデイ』の主人公たちも話し言葉はノルウェー語で、それでもビートルズの歌に夢中なところがいい。

 

ただ、私が本作で一番推したいところはそこではなくて、もっと普遍的な青春映画としての部分。
この映画は基本的に主人公の男の子が学校の試験で書いている小論文で綴られる内容を、回想ドラマとして再現していくスタイルを取っている。
その中で、「(いつも一緒に遊んでいる4人は親友同士で、とても仲が良かったけど)それぞれ誰にも言えないことも増えていった。」というモノローグが入る。
そこから本作は、その4人のそれぞれが打ち明けられないことを映し出していくわけだけど、実はその多くは誰もがそこそこ経験するようなことで、とりたてて特別なことではない。
で・も・だ・か・ら・こ・そ、この映画は圧倒的に魅力的だ。
だって、もう分かりすぎる。
「お前は(かつての)俺か!!?」的シーンの無限連続。
だから逆に言えばまぁ平凡だし、健全。
でも、いくらなんでもそれを瑞々しく描いてくださっていすぎる。
自分は孤独じゃなかったんだって、これを観て思える。
だって、あの頃は誰にも言えない自分だけの秘密だったけど、こんなにもそんな自分みたいな行動を繰り広げる少年を目の前にしてる。分かる。分かりすぎる。
自分て変わってると他人からは言われて続けてきたけど、いやいやいやもうめっちゃ平凡じゃん、だって外国の映画の中ですら超分かる人が出てくるんだから。
そういうときめきと幸福感。
そういうものに1秒も途切れることなく埋め尽くされている映画、それが自分にとってのこの『イエスタデイ』。
とりわけ初恋映画としてはもう本当によすぎる。めちゃくちゃ胸に突き刺さるときめきと切なさとリアリティー。
個人的には『あの頃ペニー・レインと』や『アクロス・ザ・ユニバース』や『シング・ストリート』よりも超超超超大好きな青春恋愛映画です。

 

『グッバイ、サマー』は『シング・ストリート』以上に14歳を肯定する映画。とても好き。

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『グッバイ、サマー』を観た。

分かり易く「おおぉぉ〜〜大傑作だあぁぁぁ!!」と即叫び出すみたいになる作品ではないけれど、胸の中から身体中にかけて「この映画めっっっっちゃくちゃ好きだぁぁぁぁ大好きだぁぁぁ“最高”ではなくとも好きさではもうこれ最高レベルだぁぁぁぁぁ」みたいな気持ちがどんどんどんどんふつふつと滾っていく“私はこの映画大好きです映画”。

だってあまりにも、あまりにも親密さばかりじゃない?この映画。
予告編だと完璧なキラキラセンチ感、ときめき感で固められててこれは最終的に涙を禁じ得ないやつか⁈と相当構えて観ることになったんだけど、実際は想像以上にカラッとしてるしザラザラもしてるしデコボコな感じも受ける、とてもフランス映画らしい青春映画になっている。でも、それがこの映画にはものすごくプラスに動いてる。

物語としても、主人公の2人はそれぞれに、時に2人一緒になって、いろいろな目論みを抱いていつも自分なりに頑張るんだけど、まぁこれでもかときっちり上手くいくことなんて何一つない。途中までは上手くいったとしても、やっぱり綺麗なフィニッシュには程遠い終わり方になっちゃう、何をやっても。

でも。だからこそ。この映画の中で終始貫かれる“それでも前に進むんだ”という2人のめげない気持ち、生命力とも言えるような、転んでも湧き上がってくる次に向かう本当の強さは、私たちの心を捉えて止まない。ホントにこの2人は偉い。なぜか最後にはそう思えてくるほどだ。そしてつまりそれは、有名人や優等生のような立派な結果は何一つ出せなくても、ごくごくありふれていても、好きなことを大切にしながら毎日を奮闘してる14歳の少年少女は、誰もが偉いんだと、尊いんだと、そう思わせる破格の親密さとリアリティ、肯定感がこの映画には満ちていることを伝える。


同じく14歳の少年達の奮闘を鮮やかにも真摯に描いた『シング・ストリート』を観て心弾ませ感動しつつも、“やっぱり青春映画で絵になるのは楽器の出来るバンドキッズだよな〜”とちょっとしんみりした、かつての絵画好き少年、マシン好き少年、実は女の子大好きムッツリ恋愛系少年、安心してください。
『グッバイ、サマー』を観れば、楽器ができなくてもバンドをやってくても、14歳の情熱は何であれ思いっきり青春映画の絵として最高に素敵なことが分かって、めっちゃ清々しく、嬉しい気持ちになれます。


機械いじりが大得意で、女子にもどこか冷めてる自立した男子と、絵画が好きで片思いに悩んでる、背の小さな美形の男の子。

まるで住む世界観が掛け離れてるような2人だけど、学校やクラスメイト、家族に感じてる違和感や不満、理想の生き方に似たものを見出して、出会ってすぐに仲良くなっていく。趣味は違うけど、なんとなく自然と心を開けて、仲良くなっていくあの、言葉では表現できない、完全にフィーリングとしかいいようのない感じを、とてもリアルに自然に描いている。
2人の交わす会話の素晴らしさがこの映画の大きな魅力になっている。

こんな真理を貫いたような、大人っぽくてカッコいい言葉、果たして14歳が言えるのかよ⁈(そういう台詞はだいたい自立心の強い機械オタクが言う)と思ってしまうくらいなんだけど、むしろそれが、頭のキレる少年が無垢な相方に対して、ちょっと兄貴ぶってさらっと言っちゃってる感じが、一周回ってとてもリアル。その感じが、妙に愛おしく感じた。

2人で手作りした車で夏休みに旅に出ようと一度は決意したものの、やはり無邪気な夢に対して現実は厳しく、一度は諦めかけてしまう。そこで、2人がもう一度お互いを立ち上がらせるためにする会話が最高だ。

 

“このまま諦めたら、30年後に再会した時の会話はこうだ。「14の夏、2人で車を作って旅に出ようとしたよな。結局諦めたけど。」それでいいのか?ここで諦めちゃダメだろ!” 

 

このカッコよすぎて無理がある感がむしろリアリティを増しちゃう、この映画のムードがすごく好き。

 

(今片思いしてる女の子には) “意識しなくなった頃、付き合えるよ。その頃には彼女も普通の女子だったんだと気付くよ”

 

も14歳にしてはマセすぎなんだけど、大人の受け売り感も絶妙に出せてて刺さった。

 

何をやっても最後まで上手くいかなくても、それでも前に進み続ける男子の思春期をリアルに、優しく、ユーモアいっぱいに描いてて、私はこの映画が大好き。