『キングス・オブ・サマー』はひたすら17歳のリアルが追及された、永遠の青春がここにある映画だった

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『キングス・オブ・サマー』は物語の題材的には、17歳の少年たちが経験した夏を、青春映画として描く製作者側の大人になった立場から見た、当時への熱いセンチメントやノスタルジーを入れ込み放題のテーマこの上ないものだ。

だから、いかようにでも感動作として盛り放題だったはずで、2年前の『ウェット・ホット・アメリカン・ サマー』との併映時に、初めて本作のトレイラーを観た際に、私自身も思いっきりそっち側を期待してしまっていた。というか、『キングス・オブ・サマー』の1週間前に企画されていた『ウェット・ホット・アメリカン・ サマー』の本編上映前に初めてその予告編を観た私は、そこでちょっと泣いてた。だってあまりにも、中高生当時、誰かに言うほどの悩みでもないと思って、というか恥ずかしくて誰にも言えないながらも一人でずっと悩み続けていた、親への不満やいら立ちや苦しさと、自分がそれに対してやりたくても出来なかったことが、この映画の物語では120%の共感度でなされていたから。

その時の予告編がこれ。

(結局そのときは楽しみにしてた翌週の朝に起きられなくて『ウェット・ホット・アメリカン・ サマー』しか観れないままでいたので、今回の劇場公開は本当に嬉しかった。)

 

だけど実際に観た『キングス・オブ・サマー』は「そういう映画」ではなかった。

本作は、完全に“17歳”のリアリティを追求することに徹している。大人になった視点から取って付けたようなカッコよさや感動には目もくれず、悪ふざけ的なところも気分屋的なところも、その真摯さが胸に迫る17歳の意地も、美化されずありのままが描かれている。

だから大人になった男性としては、ちょっと気まずい映画でもある。

言われてみれば、17歳の頃なんて実際はこんなくらいカッコ悪かった、と認めざるを得ない気持ちになるシーンのオンパレードで、過去を美化しがちな私にとってはある種のセラピー的映画体験でもあった。

 

劇中でMGMTの「The Youth」やYouth Lagoonの「17」も流れると聞いていたので、どんな洒落た挿入のされ方をするのかと期待していたけど(MGMTやYouth Lagoonというタームに一番過剰反応してしまう世代の日本人として)、お洒落で垢抜けた音楽として特段響くわけではない使われ方、あくまで物語に忠実に沿う音楽としての使われ方をしていて、これは日本人のUSインディファンにとってのUSインディと、実際のアメリカのキッズにとってのインディポップのイメージとの違いによるものなのかも知れないと思った。

海外のインディポップなんて本国ではイケてないナードが聴くものなのでしょう?

 

そして以上を踏まえて、これが今回一番書き残しておきたかったことなのだけど、今回『キングス・オブ・サマー』を観て、改めて、同じくGucchi's Free Schoolさんが配給してくれたアメリカ発の2010年代青春映画『アメリカン・スリープオバー』の魅力・特性が、よりリアルに分かった気がした。

17歳当時を物語化する大人視点からのセンチメントやノスタルジーが持ち出されず、ひたすら17歳との同次元性が追求された『キングス・オブ・サマー』は、その性質が『アメリカン・スリープオバー』とは極めて対照的な青春映画であるということ。

そういう意味で、2年前に併映された『ウェット・ホット・アメリカン・ サマー』と『キングス・オブ・サマー』は近しい部分があったのではないかと思う。

青春の状況が美化されたり、カッコよく映されたり、きれいにまとめられたりしていない。だからこそ、スクリーンに映されるのは大抵は隙だらけのボーイズ&ガールズだけど、時として狙った感動よりも観客の胸に熱く刺さる瞬間がある。そういう魅力を持った映画たち。

 

そういった意味で『アメリカン・スリープオバー』の原題訳が『アメリカン・スリープオバーの神話」なのは本当に冴えてると思う。

青春映画に必要不可避なはずの大人が登場しない、キッズだけの非現実性・ファンタジー性を兼ねた物語。登場人物の誰もがミドルティーンなのに親のことで悩んでる風を見せないのも、「ティーンのリアリティ」以上に、「大人の視点から振り返った時に、青春時代の中でも特にスポットを当てて表現したいもの」が存在している証明になっていると思う。

『アメリカン・スリープオバー』のエンディングテーマ、The Magnetic Fields「The Saddest Story Ever Told」も、『キングス・オブ・サマー』のエンディングテーマ、Youth Lagoonの「17」も、どちらも歳を重ねる・経験を重ねることによる純真さの喪失の痛みを歌っているけれど、前者がかつて手にしていた物語を手離すこと、完全なる別離を歌っている歌詞なのに対して、後者はこれからもその延長線上で生きていくことを歌っている点が、象徴的に感じた。

また、『キングス・オブ・サマー』のキングとは、自分たちの法に基づく暮らしを作り上げる独立者のことで、それは大人の存在を対照的に証明するものであり、本作の現実性を示していると思う。

 

 ※1年前に書いた『アメリカン・スリープオーバー』劇場公開時の感想