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『アメリカン・スリープオーバー』は青春映画を見つめ、見守る名作だった

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『アメリカン・スリープオーバー』を改めて観た。

エンドクレジットに差し掛かったスクリーンを見つめながら、これは名作だと深く噛み締めた。

青春映画というよりも、青春を見つめる映画、青春を見守る映画。もっと直感に従って言ってしまうと、青春映画を見つめる映画、青春映画を見守る映画だと思う。

映画の作品自体が、ある夏休み最後の週末の一夜を舞台にした青春群像劇を見つめている、見守っている感覚、そして私たち観客はその見つめる映画をさらにその外側からスクリーンを通して見つめているの。

だからこの映画には常にどこか俯瞰的でノスタルジックなフィルターが掛かっているように見える。それは郷愁とか、過ぎた思い出に寄せる切なさとか甘美さとか、そういうものをいとも簡単に引き込んでしまう、観客の内面からこの画面に対して。

だから、もうオープニングシーンから切なくて甘酸っぱいもんね。ただプールサイドで中高生女子2人組がチルってるだけで。

ということで、原題訳の『アメリカン・スリープオーバーの神話』は不自然でも大袈裟でも何でもなく、実際に神話感のある映画にできてる。

 

作品中でも実際に「神話」という言葉が出てくるシーンがある。

夏休みが終わったら高校1年生になる女の子・マギーと、夏休みが終われば高校3年生になる男の子・スティーブンが、夜のパーティーでプライベートでは初めて会い、2人で終わっていく夏休みや訪れる新学期について語り合ってる時の会話だ。

スティーブンはマギーに対して「可愛い女の子の君には今を大切にして欲しい。過ぎてしまってから気付く。それは神話なんだ。“10代の神話”なんだ。」と言う。そして今過ごしてる新学期前最後の週末を、ちゃかして「人生最後の夜さ。」なんて言ったりする。

でも、それはこの群像劇をリードする何人かの少年・少女たち、いやもう出てくる少年・少女たち全員にとっても同じ認識であることが、全編通して絶えず伝わってくる。

もう終わろうとする夏休みの最後の週末。誰も簡単に潔く見送れるはずのないものだ、10代の中高生たちにとっては。

だから彼らはその週末にそれぞれのグループでお泊まり会=スリープオーバーを開き、夜通し誰かと時を共にしようとする。


『アメリカン・スリープオーバー』という映画は、その夜それぞれに、ある賭けに出た、冒険の一歩を踏み出してみた4人の少年・少女を群像劇のメインキャラクターとしている。

その誰もが恋をしており、その追いかける恋愛模様を軸としながらも、恋愛だけに焦点を絞ることなく、彼ら彼女らのその夜のすべてを周辺の友人、兄弟たちも含めて広く見守り続けた映画だ。

そして何度も登場する特別な「キス」が物語にとって重要なものとなっていて、それがこの映画をよりロマンチックにしている。

しかしその一方で、何かフィクション特権的な特別な事件がこの物語上に用意されているかというと、そうではない。様々なイベントがそれぞれに起こる一夜ではあるが、むしろそういう描き方は極力排除されているといっていい。だってこの映画は見つめてる映画であり、見守ってる映画だから、それ以上のことをされてはよろしくないのだ。映画の方から、物語の方から、彼ら・彼女らに何か事件を与えてやろうなんてことは一切せずに、ただ彼ら・彼女らを見つめ、見守るだけ。

それを徹底的に守り通せたからこそ『アメリカン・スリープオーバー』という映画は名作となり、神話と成り得たのだと思う。つまり、この映画は、物語は、彼ら・彼女らを信じた、彼ら・彼女らの中に青春が、青春映画があることを信じた、だからじっと見つけ、見守り続け通すことが出来たのだと思う。そしてだからこそ、エンドクレジットが流れていた時に、本作は名作となって観客の前に、本当の、全体の姿を表し、これが神話なんだと堂々の幕引きを成すに至るのだ。

 

昨日公開された『君の名は。』は素晴らしい青春映画の脈動を最高値で体感することのできる映画だけど、あの映画で言うところの青春感は映画が、物語が、彼・彼女にもたらしたものだ。男女の体と心を入れ替え、時空を往復させ、彗星衝突から町を守る為に疾走させる。そうやって映画に青春の脈動を次々と熱く打ち込んでいく。それももちろん感動できるし、ありだと思う。『アメリカン・スリープオーバー』は青春感はそんな作為的なことしなくても、彼ら・彼女ら・そして私たちの内面にしっかり存在するものだと示すことに徹してる点で、真逆なのだ。