フランソワ・オゾン『彼は秘密の女ともだち』を観て、改めて考えたりしたこと

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8月8日から劇場公開されているフランソワ・オゾンの最新作『彼は秘密の女ともだち』は、予告編や宣伝の謳い文句にさらっと触れた時点だと、

「“女装”を秘密の趣味嗜好として抱いてきた、逝去した親友の夫との、“現場”での偶発的遭遇を機に始まる、“女同士”2人だけの秘密の交流・築かれていく友情を通して、親友を失くした悲しみと平凡な毎日の倦怠感に色あせていた私の人生が、もう一度“自分らしさ”という色彩で脈動し始める」的な、

少し“イロモノ的ネタ”所以の笑いも交えながら、社会で生きるために選んだふつうな自分”の陰に隠れてしまった、誰もが持つ自分だけの特別な個性を他の誰かと分け合える喜びと、決してそんな風に分かり合える人たちばかりではない世の中へ出ていく時にも、そんな自分以外に替わりのない、かけがえのない個性に胸を張って自分らしく生きるための奮闘が描かれた、フランソワ・オゾンにしては明るめで爽やかなヒューマン・ドラマが予見される。

 

実際の予告編がこちら。

 



そんな感じでしょ。

 

しかし!!!実際に観たら、これはもう“女装ネタ”など本当にひとつの表層として用いられてるに過ぎなくて(誰もが持ってる“人にはとてもじゃないけど見せられないが、自分が自分という人間であるときにどうしてもどうしてもどうやっても捨てきれなかった性(さが)というか、密かな欲望というか、悦びというか、そういったもののメタファーですよね、完全に。人間という動物がそもそもイロモノゆえ、こんなのの一つや二つ持ってても本当は全然イロモノなんかじゃない。)、一番典型的で、一番絶対的な強さを持つ最強王道パターンを、実に分かりやすく、されどフランソワ・オゾン独特の深みとミステリータッチをしっかり添えながら正面切って描いた、ザ・超本質的恋愛映画だと、私は捉えます。こんなにもズバリ恋愛映画っていうのは年間通しても稀なくらい、王道の王道の恋愛映画だと、私は思い込んでいるわけです。

 

この映画では107分間の中で2つの恋愛感情が何もなかったところから生まれて、それぞれが痛い迷走へ向かっていくことで想像以上に深みのある心理描写と物語へと観客を誘います。

まずその内の1つが、予告編でも「君に恋してしまった」と発言があるように、女装を密やかな趣味嗜好としていた男性ダヴィッドが、そんな絶対のはずの秘密を見破られてしまったことで、逆に親密な心の交流へと関係性が変わっていった、亡き妻の親友であり人妻のクレールへの恋愛感情。

これはもうほんっっっっとに当然といえると思います。だって、誰からも隠してきた(これは誰からも受け入れられないだろうと自覚のあった)自分だけの超秘密の喜び、本当の自分の姿を、始まりは不可抗力からといえ、しっかり受け入れてくれたのだから。

人を好きになる動機で、これほどに最強な主因は他にないはずです。ありのままの自分を受け入れてくれる他の人間に会えることほど、もしかしたら人生で喜ばしいことは他にないのかもしれません。

それが、初めから頭で“きっとこれは他の人には見せられるようなものじゃないから…”と考えて、外の世界では仕舞い込んでおこうとしてきた自分なら、なおさらのはずです。

人生で一番の喜びの瞬間って何かっていったら、そんな自分で今ここに自分がいられる瞬間ではないでしょうか。そんな時、自分は“世の中の一部として生かされている”のではなく“生きているんだ”と感じられるのではないでしょうか。

そして、本作においてダヴィッドはクレールと一緒にいるときに“だけ”、社会・世の中・現実の世界に居ながら(=自分以外の他の人間と一緒の空間で互いに存在を認識しながら立ち)、おなかつ、自分自身がありのままの、重い秘密から解放された自分でも居られるのです。それはもう絶対好きになる。そんなに幸せなこと、無いもの。

 

少し話は逸れますが、ダヴィッドがクレールという存在に(そもそも偶然“現場”での遭遇があって)出会うことで成し得た、このようなことを、現実で誰もが経験することはなかなか難しいかもしれません。

それでもこれに近い心理体験を多くの人にさせてくれる、人類が発明した偉大な魔術があって、それが音楽というものではないかと私は思っています。

音楽というのは、たとえ社会・世の中・現実の世界では居られないような=そこでならひとりぼっちになってしまいそうな自分=ありのままの自分で居ても、一人ぼっちではない、誰かと一緒に居られるような、そんな勇気をくれる、素晴らしい奇跡的魔術だと私は考えています。

 

そしてさらに話は逸れますが、この10年間で“世界最強のライブアクト”という称号をこれでもかとかっさらってきたArcade Fireというバンドが、なぜ、実際に世界最強のライブアクトなのかという理由もまさにしくそこにあって、あの人たちはライブでお客さんにどんなことをしてるかというと、全身全霊で「おいおいおい、ほらほらほら、もうありのままの自分、ここで全部わめき散らすかのように全部ぐっしゃぐっしゃに出し尽くしてみろよ!もう思いっきり子供みたいに泣きじゃくって、叫び散らして、ほんとの自分出し尽くして頂戴よ!社会・世の中・現実の世界でお前がどれだけそういうのを眠らせて必死になって何かのために生きようとしてるの知ってる。でももうここではそういうのまっっっったくもっていいから!ここでは自分のためにだけ泣き叫んでみろよ!絶対にそれでもひとりにさせない、世界を俺らが今現実に実現させるから、だからほら、ありのままの自分を“目覚めさせるんだ!!」っていう公演を毎回毎回バカみたいなエネルギーを使ってやってるから。そんなことしなくてもスタジオワークの実力だけで世界トップなのに、それでもツアーでは毎晩怒涛の勢いで生身の人間を前にしてそこを目指してきてるから。そりゃあ皆、泣くほど好きになるし、世界最高って言いたくなるわなぁって話。

 

ま、それだけ現実の世界では、=他者と空間と共にした時間には、ありのままの自分でいることなんて、そうそうできないし、それだけ人生において価値のある時間だということ。

だから逆にいえば、“自分と一緒に居るときは、気を使わずにありのままの自分で居ていいんだよ”っていう空気をいろいろなやりとりや言葉に変えて、さらっと出してあげられたなら、その人から好かれる人間になる可能性も高まってくるということ。で、モテる人っていうのは、結局、そのやり方が本当に自然で飾らずにできる人。じゃないかと思うのだけど、どうだろうか。いやー羨ましい!!これ、やろうと思って簡単に誰に対しても素朴な感じで出来るもんじゃないと思うし、才能的な部分もあると思う。でも、好きになり合いたい人なら少し心掛ければそれなりにできると思うので、個人的にはけっこう使えると思う。(←その時点で素朴さが全然ないので私はクソ)

 

が、しかし、それでもありのままの自分を誰かに出せるって本当に難しい、というか無理に近いと思うのだよ。そもそもこの映画のダヴィッドも、自分から勇気をもって女装を明かそうとしたわけじゃなくて、“発見”されてしまったわけだしね。だからなおさら、ダヴィッドがクレールを好きになるのは共感できる。

 

ダヴィッドのように、始めはホンの偶然だろうと、超一時的な気の迷いだろうと、(普段は人には決して見せない、恥ずかしかったり、自分では半分くらいちょっとヤだったりする、それでも止められない)ありのままの自分を見せてしまった時に、そしてそれでも相手が意外とさらっと受け入れてくれて、交流が続いていった時に、深い恋に落ちる。

それで、その恋愛の最中はいいのだけど、思いが叶わなかったり、恋人関係が終焉を迎えたりして、もう一度まっさらになった時、今度こそはもう変なところは見せたりずに(だって、やっぱりそれはカッコ悪い、キモチ悪いという認識はあるから)“洗練された”恋愛をしたい、しようと思ってしまうことがあるかもしれない。(自分ではそれこそがれっきとした“反省”であり、どう考えも正しい次の道だと思い込んでいる。)

そこで、自分の恥ずかしいところ(ありのままの、本当のみっともない自分)に対して、それを覆い隠すかのように見栄えの良いもので上塗りして、それが爽快でもあって、自分は“洗練されていってる”という勘違いをしてしまう。

そしてそれが日常化すると、自分の恥ずかしい部分、ありのままの自分をもしかしたら打ち明けるべきだった人にも隠したまま振る舞い通すことをが身に付いていく。

その結果辿りつくのが、“誰のことも本気で好きになれなくなる”というかつてなく厄介すぎる袋小路。でもそりゃやってることがそうだから、当然誰のことも本気で好きになれなくなっちゃう。ありのままの自分を誰にも見せないということは、人生で味わえる極上の幸福感を残念ながら諦めることだし、そうするとそんな幸福を誰とも共有しないことにもなるから、当然、本気で誰かを好きになることもなくなる。基本的に、幸せを共有できる人を人は好きになるから、本気の幸せを諦めたら本気で好きになる人ができることも諦めちゃうことになる。

そんなことから最近“洗練されている”、“洗練される”とは真にどういう意味かを考えるようになった。

 

本当の意味で、人間として洗練されているとは、むしろ、(自意識過剰な自分が自分自身に対して思う)恥ずかしいところ“だけ”を残した時に、胸を張っていられるかということではないかと思うようになった。

洗練される、とは自然とそんな自分で居られるように近づいていく過程のことかな、とか。

つまり、洗練とは潔さ、=ある意味で、自分自身に対する失望の果てにあるものではないかと。垢抜けるってそういうことだと思う。そのためには進んでいっぱい失敗しなければいけない。それが全然できない私は、どんなに見栄えの良いもので取り繕ってみても超ダサい。

また話は逸れるけど、Joni Mitchellの音楽は、彼女の詩やメロディや歌声、ギターすべて、本当に洗練されていて(この流れでこう書いてしまうと馬鹿にしてるのかと思う人もいるかもしれないけど、もうぅぅぅ全然思いっきり超逆です。本当にあこがれを感じます。)、私にとって最高のシンガーソングライターです。

特に大名盤『Blue』のオープニングチューン「All I Want」は世界一好きな唄であり、歌詞であり、ラブソングです。

 



(歌詞の日本語訳 『Blue』の日本盤CDの対訳からの引用です)

たった一人で旅しているの、旅しているの、旅に出ているのよ。何かを求めて、それがなんだかは・・・
あなたって嫌い・・・、嫌いなところもあるわ。でも、愛している。
自分のことを忘れれば、あなたが好き
あたし、強くなりたい、笑い飛ばしたいわ。生きている手応えがほしいの
生き生き、立ち上がって、踊り出したいの
ジューク・ボックスのある安酒場でストッキングを破りたいわ
ねぇ、あたしと、あたしとダンスしない
ねぇ、あたしと甘いロマンスを見つけてみる気はない
さぁ、いらっしゃいよ

 

この恋を通して私がしたいのは、あなたとあたしの一番いいところを引き出すことなの
そう、愛することによって、二人とも、ステキになりたいのよ
あなたに話したいの、あなたの頭を洗ってあげたい。あなたを毎日、新しく生まれ変わらせてあげたいのよ
拍手喝采、二人が出逢ったのは運命よ
あなたのキスを思うと、心が揺れるの
ねぇ、わかる? わかる? あたしがどんな思いをしてるか
だからあなたのことも苛めるの。そして二人して傷だらけになりましょう

 

一人で旅しているの。自由になる鍵を探して・・・
あー、嫉妬と貪りの糸はほどけない、絡まったまま
そして全ての歓喜をだいなしにする
あたしは楽しくやりたいの、そして、太陽のように輝きたいの
あなたの逢いたい人になりたいのよ
あなたのセーターを編みたいの
あなたにラヴ・レターを書きたいの
あなたの気分を和らげてあげたいの
あなたを自由にしてあげたいの
あたなの気分を楽にしてあげたいの
そう、あなたを楽にさせてあげたいの・・・

 

1行1行が言ってることは何気ないことのかもしれないけど、それが外の世界に出される、歌に乗る言葉として出されるものだと思うと、私のような気持ち悪い性格の者からすると、歌詞が本当に衝撃的だった。まっすぐで、研ぎ澄まされていて、真実の色彩を放っていて、それに触れることが何より心地よい。

Joni Mitchellの歌詞や演奏に触れて、自分が焦がれる、あこがれる「洗練されている」や「お洒落」という概念がはっきりしたようなところがある。

よく見せよう、綺麗に見せようとせずとも、あけすけで、ありのままで、正直であっても、それは研ぎ澄まされていて、真実の色彩や本質を捉えている。そこまで到達されたものだけが表現できる特別な美しさと潔さ。

 

とにかく横道に逸れすぎましたし、長くなり過ぎましたが、『彼は秘密の女ともだち』という映画でもここで私が考えてきた、まさに“洗練”の姿が最後に現れます。

あのラストシーンは、クレールとダヴィッドが辿り着いた、本当の意味での“洗練”の究極の姿だと思います。

 

先に書いた内の、もう一つの恋愛感情。それはここまで考察してきたダヴィッドの「クレール、君のことに恋してしまった」という恋愛感情を受けての、クレールの気持ちになります。

映画としては、ここのクレールの心理描写、心の動きの表現こそが最大のキモとなってきます。ですので、ネタバレにもなりそうですし、(本当はもう書き疲れただけ。)詳しくは書きません。

とにかく言えることは、「本気で君のことが好きだ、好きだ」と言葉にしたり、行動で示したりと、強い関心を・我を忘れるほど自分以外の誰かへと真の関心を示し続けられた時、それは思いがけず人の心を大きく動かすし、そうした力を持ち得た時に、その“関心”のことをもって、初めて“愛”という形容で人の心を呼べるのではないかということ。

そういった意味でも、やはり『彼は秘密の女ともだち』は王道中の王道の恋愛映画と称える他ない、“ザ・恋愛映画”だと思う。

 

以上。

ですが、この文章の下書き的に先日ツイッターで書き殴ったものを載せておきます。ツイッターだと文字数が少なくて書きたいことがぐちゃぐちゃになってしまったのでほとんど削除してしまいましたが、本当に書きたかったことは今回のブログの内容でした。まぁ、どちらにしても恥晒しにしかなりませんが、せめてネット上からでも恥を晒す癖をつけようと思い、今回このような形で行動できたことが、『彼は秘密の女ともだち』という作品に出会って私が実際にできた僅かながらの行動なのではないかと思います。

 

「あんた、恋愛に意味なんて求めてるわけ?馬鹿じゃないの」(あさのあつこ『ガールズ・ブルー2』)がビンタだとしたら、フランソワ・トリュフォー『隣の女』の「(あなたと私の2人の関係において)愛は私のもの。あなたって理屈だけ。あなたは愛の意味を求めただけ」は往復ビンタくらった感あった。

男は、と何かと一般化して逃げようとするのはよくなく、先月『隣の女』のこの台詞に出会った瞬間にグッと首の根を掴まれたような気になり、はっきり言って自分自身が愛に“意味しか”求めてこず、結局のところ、自分自身は(我を忘れられた数少ない時を除けば)愛のない人間でさえあったのだと悟った。

私感だけど、愛とは命がけで関心を寄せること、本当はそれだけのシンプルなことなのだと思う。自分の生命の存続よりも、今、あなたのことが気掛かりです。という、言葉にすれば大袈裟だけど、それを大袈裟と感じる隙も無く、自然とそう心が動いてる、ただ、そういう瞬間の状態の形容ではないかと思う。

“関心を寄せる”と言ってもストーカー的理論というか変態的理論の“関心を寄せる”は、違うと思う。その際の“関心を寄せる”とは、“自分の知識として知りたい”のであって、そこに自分自身から相手の人格そのものへの気持ちの動きはないから。愛の意味を求めるばかりというのも、どこかこれに近い。

『彼は秘密の女ともだち』という映画は、一見予想される、色物ネタを絡めたヒューマンドラマという以上に、もう本当にひたすらど真中ブチ抜きで、ザ・恋愛映画だと感じてる。恋愛の意味や愛の意味を描いた映画ではなく、恋愛そのもの、愛そのものをストレートに、ありのままに描いた不器用な力作だと。